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きょうちゃん

心を開き、聴く土壌をつくる。│ Hello! Senpai. Vol.06

こんにちは!
NPO法人DNA 授業「未来の教室」学生プロジェクトチームの「りょーや」こと佐藤です。

”群馬の10代と社会をつなぐ”「Hello! Senpai.」のインタビュー第7弾!今回はきょうさん(社会人センパイ)にインタビューしてきました。

きょうさん
対話のワークショップを行う企業の代表。対話を通じて、自ら動けるチームづくりを支援している。2016年10月から社会人センパイとして授業「未来の教室」に参画し始める。授業のみならず、センパイコミュニティの数多くのイベントでも活躍中。

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大人って社会の土壌。

── よろしくお願いします。まず、きょうさんの中学生・高校生時代のことを教えてください。

きょうさん:小さい頃から肌の色が白くて、ちょっとぽっちゃりしていました。そのせいか、見た目が人より浮いていた感じがずっとしていました。見た目に対するコンプレックスがあったんだと思います。だから学生時代は、どうにかして自信を持ちたいみたいな気持ちがある中で、「自分じゃない感じで自分を演出する」みたいなことが結構あったかもしれません。

例えば中学生の頃、給食に出たゼリーを本当は食べたいけれど、「俺あまいもの好きじゃないから」とクラスメートにあげたことがあります。今ではくだらないと思いますけれど、相手に気に入ってもらえそうな小さな嘘で自尊心を守っていたのかもしれません。そういうことってありません…?

当時は自分のありのままを見せる勇気がなかったんです。今、「ありのままの気持ちを言える場がほしい」と思っているのですが、そのきっかけは中高時代にあるかもしれないです。

── 授業「未来の教室」に関わっていて生まれた思いはありますか?

きょうさん:高校生と関わっていると、ある種の純粋さを感じるときがあります。恥ずかしいときは心を閉じているんだけれど、心が開いた途端に可能性が「わっ」となってたくさん話し出すみたいな。

そうやって、授業「未来の教室」に触れた高校生は、自由に自分の生き方を描いていきたくなったり、感性を試したり、じっくり考えたりしたくなる人が増えていきますよね。それは、未来の種である高校生が、ますますその可能性をひろげていく時間なのだと思います。

そのような場に参加させてもらったことで、自分自身が、大人としてどのように関われば良いのかは考えさせられました。今は、こう思っています。彼らが種だとすれば、大人は、それらを育む”社会の土壌”なのだと。いい土壌さえあれば、種は過度にいじらなくても芽を出し、育ち、実を結んでいきますよね。

でも、どんなに素晴らしい種でも、土がやせていたら、成長できない。だから私は、土壌であり、受け皿である大人たちをちゃんとケアしたいなと思うようになったんです。

──きょうさんの描く ”社会の土壌”についてより具体的に教えてください。

きょうさん:”社会の土壌”というのは、詳しく言えばハードからソフトまで、さまざまなものあります。その中でも、私は、コミュニケーションやつながりの質という観点から、それを考えることが多いです。
たとえば、「土壌がない」関係とは、決まった答えがあって、それと違うことをしたら、「あーそれ変なんだ!」と周りの人から非難をされるような関係です。別に、それが悪いわけではありません。機械工場や電車の運転のように、ミスなく同じものを作ったり、全てが正確にコントロールされた方がいい環境では、”土壌”よりは、”レール”が敷かれた方がいいですよね。

では、「土壌がある状態」とは、どのようなものか。それは、大人同士、大人と若者、つまり、人と人が自分自身の心を、自由に開いていられる関係だと思います。

そして、いろいろな人と人が勝手につながることができる。自分のありのままの本音や本心を、人と分かち合うことができる。それが人と違ってもいい、ぶつかってもいい。ルールから外れてもいい。それでも、大丈夫。自分は大切にされる。そう信じられるようなつながりが、”社会の土壌”だと思っています。それは、これまでの枠組みを超えたり、あたらしいものを創り出す時に役に立つような繋がり方ですね。

私は、中高生のことを「未来の種」と思った時に、大人として必要な関わり方は、”レール”よりは、”土壌”かなと思っています。だから、「ここだったら、自分の心を開いておける」っていう安全な空間を、1人ではなく複数人で保つ実践を社会に広げたいと思っています。その器に高校生が入ってくる形じゃないと、大人が中高生に対して押し付けがましく関わることに精一杯になり、お互いが疲れちゃうと思います。

イラスト左:”社会の土壌”がない状態。表面上のやり取りしかできず、考えも深まらない。
イラスト右:”社会の土壌”がある状態。奥深く考えられ、考えが発展していく。

── ”社会の土壌”をつくるために、きょうさんはどんなことを大切にしたいと思いますか?

きょうさん:どうやって安全な空間や、器となる関係性をつくるかということですよね。その1つを、私は高校生の素直なあり方から学んでいます。
具体的には「決めつけなく、学ぶために聞く」ということです。それは、自分が「なんかイヤだ・それは違う」と、つい反応的に拒否したいと感じたものに対して、判断を保留できるということです。大人は経験が増えてくると、経験的に「この人が言っていることは違う」と思うことも増えてきます。

私もそのようになることがあります。そして、聴く耳を閉じてしまう。あるいは、相手に反論をしたり、アドバイスや説得をしたりしたくなってしまう。自分の有能さを示したい。私のほうが正しい。そんな気持ちで自分の中がいっぱいになっていることがあります。でも、それでは、自分がすでに知っていることを、自分に再放送しているだけです。人の話を聞いているとは言えませんよね。

そのような反応が自分の中であった時に、まずはゆっくりと深呼吸をして、決めつけを横に置くこと。そして、「この人は何を伝えたいんだろう。何かこの人から学べることがないかなあ」と、好奇心をもち、相手に敬意を示しながら、言葉の奥にじっと耳を澄ませるということ。それが、「学ぶために聴く」ことです。

実際に、私がご一緒した高校生の何人かは、それができていました。高校生は、大人と比べると経験が少ないから、「こうあるべき」という思い込みが少ないですよね。その代わり、知らないものに対する好奇心がある。小さい頃、お父さんお母さんに「これなあに?」「なんで?」って、たくさん聞きませんでしたか。その力がまだまだあるから、高校生は大人よりも物事を決めつけることなく、色んな事を吸収しているように見えます。「なんか聞いてみるか」という余地が彼らにはある気がするんですよね。心を開きやすい関係作りのコツって、うまく自分の意見を伝えられることではなく、人の気持ちを受け取ることなのかもしれないですね。

 

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人が変わる瞬間は、狙って起こせないけど‥‥

── 授業「未来の教室」で印象的な生徒の言葉や変化はありますか?

きょうさん:「じっと聴いてくれたから話せたことがあった」みたいな関わりができたことはすごくうれしかったです。自分でも心がけているんですけど、余地(スペース)があるのがすごく大事だと思っています。

例えば、自分の思いをなかなか言葉にすることができない生徒と関わるときは、「何を話してもいいし、何も話さなくてもいい。別にイヤだったら帰ってもいいけど、俺はここにいるからね」って感じでいようって意図していました。「じっと聴いてくれたから話せたことがあった」っていう言葉は、それが機能したっていうことだと思うから、とてもうれしかったです。

もうひとつは、内気でおとなしい生徒と関わった時に、「何が好きなの?」って聞いたら、「ギター好きなんだよ」って返してくれたことがありました。そうしたら周りの生徒が、「マジかよ、お前かっこいいな、そういうの早く言えよ」みたいなこと言い出したんです。その生徒と周りの生徒とのやりとりを見て、勉強とか運動っていうよくあるモノサシではなく、その子が好きなもので認められる瞬間っていうのはいいなって思いました。
その生徒はちょっと恥ずかしそうだったんだけど、その表情からはちょっとドヤみがじわっているようだったんだよね。その子が自分にちょっと自信を持てた瞬間だったなと思うんです。

── 生徒が「自分の好きというもので認められた」瞬間に立ち会えたとき、きょうさんはどんなことを感じましたか?

きょうさん:うれしかったし、そういうことに立ち会えたのはありがたいと思います。
実は、この子が「ロックギターが好きだ」と言う前に、私から彼に対して「俺はギター弾くんだ」という話をしたんです。おそらく、それがきっかけとなって、その子が同級生に対して「ロックギターが好きなのだ」ということを、未来の教室の場で言ってくれたんですよね。そうしたら、その子と同じグループの子が「お前、なんかかっこいいじゃん」って。その瞬間が現れるために、ちょっと自分が役に立ったかもと勝手に思えたことでした。

人が変わる瞬間って願うことはできるんだけど、狙って起こすことができない。ただ、その瞬間に立ち会えることってラッキーじゃないですか。種をまいて芽がいつ生えるかなんて分からない。だから、ずっと見ているわけにもいかない。でも、芽が出た瞬間が見れたら、うれしいですよね。それは生徒が自分で自分の可能性をひらく瞬間だし、さっきお話した社会の土壌としての大人にとってはこの上ないことです。

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ゆっくり聴くことが大切。

──これまで話を聴いてきて、きょうさんは「伝える力」というよりも、「受け取る力」を大切にされているなあと思っています。私にとって「伝える力」は、自分の思いやメッセージを相手に分かりやすい、自分の言葉にして伝えることで、「受け取る力」は、相手の話を聞いてその人が経験してきた世界観を感じるということだと思うんです。そこでお聞きしたいのですが、きょうさんにとって、「伝える力」と「受け取る力」っていうのはどういうことなのか知りたいです。

きょうさん:みんなが「伝える力」ばかりを気にして、大きな声で説得しあおうとする社会の中で、私はあえてスタンスをとって、「伝える力」よりも「受け取る力」が大切だと主張しています。

というのも、私は強そうに分かりやすく伝える、相手を説得しよう‥‥。相手に対して「心開こうぜ!」みたいなコミュニケーションは、なんか怖いなあと感じちゃいます。もちろん、今の社会で生きていく中で、自分の思ったことを端的に伝えるということもひとつの大切なスキルだと思います。でもそれって、受け取る人がいるからこそ、成り立つことですよね。それに、人間って、そんなにわかりやすいことばかりじゃないじゃないですか。大切なことほど、言葉未満だったり、複雑で、矛盾していたりもします。それを「わかりやすく伝えないとだめだ」とばかり思うと、つらくないですか。

だから、「受け取る力」がもっと大切にされたらいいなと思っています。それは、具体的なやり方で言えば、先ほど言ったとおりです。「学ぶために聞くこと」です。

そうだなあ、もう少し「受け取る力」を深堀りするとすれば、それは勇気のことかもしれません。「学ぶために聞く」のは、勇気のいることです。開かれた心のドアの奥には、自分にとって繊細な感覚、大切にしたい価値観、あるいは、思い出したくない記憶までもがしまってあります。そこに、他者から発せられる強い感情や、複雑な事情、答えのない問題が入ってきます。そうしたら、どうなるでしょうか。

そのまま一緒に迷子になってしまうかもしれない。もう元の自分ではいられなくなってしまうかもしれない。それでも、勇気を持ってその先に、好奇心を持ちます。「いったい、ここで何が起きようとしているのだろうか。このモヤモヤは、何を私たちに気づかせようとしているのだろうか」と、心を開き続け、より大きな視点からお互いの声を聞きあう時、私たちは、強い共鳴や、革命的な気づきを得ることがあります。

それが起きる時、私たちは、「自分の心の奥底にありつつも、言葉にならなかったようなことが、相手の口から鮮明に語られる」みたいな経験をすることがあります。
それを経験していない方には、私の説明だけではわからないかもしれませんが、それを「生成的に聴く」と言います。これが「受け取る力」の極みの1つかなと感じています。

振り返ると私は、高校生やサラリーマンのときは、傷つきたくないからといつも怯えていて、心のドアは閉めていました。だけど心のドアを閉じ続けていると、ますます「受け取る力」はなくなり、自分の内側にひきこもってしまう。「なんでわかってくれないんだ」と人を責めたくなり、ドロドロした気持ちばかりが募る。自分のことばかりで、人の気持ちにどんどん鈍感になり、最後は生きるのがつらくなってしまう。それは、さみしいことですよね。

── 今後どういうあり方でいたいと考えていますか?

きょうさん:人やコミュニティがさらに自由に、創造的になっていく「器」のような存在でありたいです。

今、日本社会は、かつてよりも使えるヒトモノカネが減ったり、新型ウィルスのように常識をひっくり返さないといけない事態が急にやってきたりしています。その中で、これまでのやり方ができなくなり、行き先が見えず、未来に立ちすくんでしまうことがあるかもしれません。その一方で、SNSとかでキラキラしている人を見て、それと比べると自分がちっぽけで、可能性がない存在だと思ってしまうかもしれません。

可能性や希望って、ふしぎなもので、諦めた瞬間に本当にそれは無くなっちゃうんですよね。でも、「自分にはある」と信じている限りは、それは本当にあるんです。すごくない?
ただ、独りぼっちでいると、信じきれなくなることもありますよね。特に、私みたいに弱い人間は、すぐ諦めそうになっちゃう。

でもそんな時、あなたの隣に、あなたの可能性を信じてくれる人がいたら、いいと思いませんか。たとえば、あなたが「もうだめかも」と思うときに、「やればやれるさ!!」みたいに無理に励まさないで、「きみは、そう思うんだね」と10秒くらい隣にいてくれる人。あなたの言葉未満の想いまでじっと聞いてくれて、「きみが考えていることはこういうことかな?ちがうかな?」と一緒に探ってくれる人。

もしそういう人が自分の近くにいたらいいなと思うのだとしたら、まずは、あなたが誰かにとっての「器」になることからはじめたらどうかな、と思うんですよね。つまり、相手の話をゆっくり聞く人になったらいいと思います。

私は、そういう人が社会に増えることを願っています。小さい子って「聞いて聞いて」と言いますよね。初めから諦めることを知っている人なんて、いないと思うんです。でも、年を重ねるにつれ、どこかのタイミングで、「言っても無駄だ」と覚えてしまうことがあります。そして、表現やチャレンジすることをやめてしまう。それがなぜ起こるかって言うと、聴いてくれる人が周りにいないから。高校生が大人や友だち、社会に対して「私なんかが何を言っても、やっても無駄なんだ」って思ってしまうのは、痛ましいことです。

みんなが言いたいことを言えてそれを聴きあえる、そうすれば、一緒に枠組みを越えていける。私たちは、自由で、可能性がある。そう信じられる社会になったらいいなと思います。もし、みなさんもそう思ってくださるようだったら、お互いの声を聞きあったり、心のドアを開いておくことを、一緒にやってみませんか。

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コミュニケーションをとる時、どうしても上手に「話す」こと、「伝える」ことを意識しがちだと思います。私もその1人でした。しかし、きょうさんの話を聴いて、「聴く」ことの大切さを実感させられました。
普段の生活の中では心を開いて本音を話すことはあまり意識していないと感じていましたが、心を開くと嫌なものも入ることを避けているからだということを感じ、確かにそうだなと感じました。だけど、心を閉じるといいものも入らない。心を開いて話せる環境づくりって大事だなと感じました。これから実践していきたいです。

[取材・文]佐藤  [写真]熊谷 [編集]櫻井

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